束縛としつけの違いとは

よく言われる「ペット扱いされる子ども」と「若者の無気力」の関連性

以前続きを書くと言っていましたが、失念しておりました。すみません。

今回続きの方をエントリーしたいと思います。


しつけとは「このままでは子どもが将来的に困ることになる」という思いやりを持って指導することです。

束縛には、その思いやりが欠けてしまっています。

または、思いやりを込めていても、内容が子どもの意思と合致せず、不適合を起こしている場合です。


このような事態は、意外とご自身では気づかれないことも多いのです。


例えば、勉強に関する例


子どもが遊んでばっかりいれば「遊んでばっかりいないで勉強しなさい」と、誰しもそうしつけると思います。

こういったしつけ自体がダメだというわけではありません。

しかし、例えば勉強させようとする理由がメンツの問題であったり、子どもの他の欲求が抑えつけられて過剰に勉強を促されているのであれば別です。


問題は、内容が正しいか正しくないかではありません。

要は、子どものために指導していて、さらにそれが子どもに伝わっているかどうかです。

親としての見栄があって、そのために勉強を強制しているならば、すぐ「自分のためを思って叱っているんじゃない」と子どもにバレてしまうでしょう。

また、真実子どものためと思っていても、子どもひとりひとりが持つ欲求があまりにも束縛されすぎていれば、やはり子どもには伝わりません。

しつけではない束縛は、子どもにどのような影響を与えるのか


以前のエントリーでも紹介しましたが、学習性無力感を覚えてしまう危険があります。

しつけであればそのようなことはほとんどないと言っていいですが、

子どもの気持ちを無視したものであれば、「他者から縛り付けられている感」を覚えてしまうからです。


しつけと束縛はその点に違いがあります。


どうやってしつけるか、よりも、

このしつけは子どもの気持ちを考えているのか、その上で伝えるべきことか、

ということを考えるのが、間違った縛り付けを回避し、かつ正しいしつけへの最短距離でもあるのではないでしょうか。