なぜ「よい子」であることは苦痛なのか 後編


前回の続きです。

みんな誰しも仮面を被っているんじゃないの?というお話からでしたね。


私たちは、年齢を重ねるにつれて、本音と建前を使い分けることが必要になったりします。

それを多数の人たちは自然と使い分けています。

それが仮面をつけていることになるならば、誰しも仮面を被っていると考えられますね。


だから、子どもを「よい子」でいるようにするのは、そのための教育なんだ、と言われれば一見正しいように思えます。

仮面は自身の個性も隠してしまう

しかし、本音と建前の使い分けなどの社交術と、仮面を被ることは大事な部分で違います。

仮面を被るということは、本音だけではなく、その人の資質や性格まで覆い尽くしてしまうことです。

そこに本当の自分はいないし、自分自身でさえ自分のことが見えません。

苦痛を感じないわけがありません。

「本当の自分」を隠したりする必要はないということ


どうすれば、この牢獄から抜け出せることができるのでしょうか。

確かに、大人になるにつれて、本当の自分自身ではなく【その場に応じた自分】であることが求められるようになります。

しかし、それは自分自身の個性を隠したり覆したりする必要があるわけではありません。

自分自身を閉じ込めてしまわないためには、

決して【その場に応じた自分が求められる】=【本当の自分自身を出すことはタブーである】と捉えないことです。

「よい子」な人が「よい子」であることを押し付ける?


生真面目な人ほどこういう風に考えがちです。

そして生真面目な人ほど「こういうものなんだ」と無理に思いこんで、苦しいながらもそれが当たり前なんだと考えるようになります。

当たり前だと考えてしまうので、生真面目で、苦しんでいる人ほど、人に【自分自身】を出さないことを強制させてしまい、悪循環が発生してしまいます。


「よい子」を強制させる人は、その人自身が「よい子」であることを強制させられてきたのではないでしょうか。


もし心当たりのある方は、考え方を変えてみてはどうでしょう。

これまで仮面を被ることを強制され、「当たり前」だと思ってきたことを変えるのは難しいですが、

そうすれば、自分自身の心も、人への接し方も少なからず変化していくはずです。


そこから最終的に、社会で求められる「よい子」から、社会で求められる「本当の自分」への道が開けてくるのだと信じています。