「学力」とは一体何を指しているか?

「学力」と聞けば、みなさん何を思い浮かぶでしょうか。

学校の成績、評価、テスト、あるいは偏差値だったり、どこの学校に通っているかだったり・・・

恐らく、ほとんどの方々はそのようなことを思い浮かべるのではないかと思います。


先ほど「学力」について綴っている記事を発見しましたので、引用してご紹介します。

学力とは文字通り「学ぶ力」のことである。
それはたまたま外形的に成績や評価として表示されることもあるが本来はかたちを持たないものだ。
というのは、「学ぶ力」とは「自分の無知や非力を自覚できること」、「自分が学ぶべきことは何かを先駆的に知ること」、「自分を教え導くはずの人(メンター)を探り当てることができること」といった一連の能力のことだからだ。
これらの力は成果や達成では示されない。
学ぶ力は「欠性態」としてのみ存在する。
何かが欠けているという自覚の強度のことを「学ぶ力」と呼ぶのである。
(中略)
人間的な意味での「力」は、何を達成したか、どのような成果を上げたか、どのような利益をもたらしたかというような実定的基準によって考量すべきものではない。
「言葉の力」も同じである。
「言葉の力」はそれが達成した成果やそれが発語者にもたらした利益によって計測されるのではない。そうではなくて、「言葉の力」とは、私たちが現にそれを用いて自分の思考や感情を述べているときの言葉の不正確さ、不適切さを悲しむ能力のことを言うのである。
言葉がつねに過剰であるか不足であるかして、どうしても「自分が言いたいこと」に届かないことに苦しむ能力を言うのである。

言葉の力(内田樹の研究室)


「学力」を定義づけるのは、成績のような表面上表れるものではなく、テストのように図れるようなものではなく、

ましてや学歴のように肩書きとして使われるものではありません。


ここでは、自分に足りないもの、欠けているものを探し続ける能力を指しています。


自分に足りないものは何か。

いつも、人は自分の足りないものについて思い悩みます。

苦しんで、どうしようもなくなり、無力感を覚えることもあります。


しかし、苦しむからこそ、欠けているものを得ようとするからこそ、人は学ぼうとすることができるのでしょう。

言葉が届かない苦しみを抱えるから、それに近づこうと言葉を学ぶことができるのです。


であるならば、私たち大人である教育者ができることは、その欠けているものや苦しみを具体化させて、

それに押しつぶされないように、一つずつ乗り越えられるように応援してあげることなのではないでしょうか。

それが、直接「学力」を育てることに繋がってくるのだと思います。