なぜ、ギリギリになるまで何もできないのか
子ども、いや大人も全員含めて、ギリギリになるまで何もやらないという人は珍しくないと思います。
夏休みの宿題を3日前までやらなかったり、試験の前日にテスト勉強したり。
どこの家庭にもありがちな光景。これって一体何を意味していると思いますか?
取りかかることを恐れている。
「忘れてた」「気にしてなかった」「どうでもいい」
このように思っていて、ギリギリまでやらなかったわけではありません。
むしろ、他の人よりも強く気にかけていると言っても過言じゃありません。
テスト勉強。試験範囲が発表されてから、もう既に「急がなきゃ」「早く終わらせなきゃ」という気持ちで頭を占めています。
しかし、頭の中で思っていることが中々実行できないのです。
なぜか?
それは心のどこかで恐怖を感じていることが原因なのです。
例えば、2週間前から勉強したけれど、赤点を取ってしまったという経験をした時、
また勉強しても成績悪いんじゃないだろうかと感じます。
「こんなに勉強したのに成績が悪い・・・」というコンプレックスが芽生え、それが露呈されることを恐れてしまうのです。
ギリギリまでやらないというのは、コンプレックスへの緩和を秘めています。
「前日しか勉強してなかったからしょうがないよな」
というふうに、直前にやるという行為を選択することで、自分の能力が乏しいと感じる瞬間、
つまり、恐怖を避けるということができるわけです。
ギリギリにやってうまくできてしまうと、それが成功体験となってしまう。
あるいは、直前にやることで何とかなってしまうことを覚えてしまったパターンもあります。
学校が始まる3日前から宿題を必死で手をつけて、それでなんとか終わらせてしまうことができる、など。
すると「ギリギリにやっても何とかなる」という風に考えてしまい、それがクセになってしまうのです。
しかし、このような成功体験はすべての物事に当てはめがちです。
長期的に継続しなければ、上手くできなくなることも出てくるでしょう。
学年が上がるにつれて、宿題や試験の範囲は広くなっていきますし、
さらには入学試験、就職活動、仕事など、どんどん長期的に考えなければやり遂げられないことが増えていきます。
精神衛生上でも、直前にやるまでの間は心的ストレスが積み重なってしまうのでよくありません。
何より、ギリギリでやるということよりも、深層心理に「恐怖感」が埋め込まれていることが問題なのです。
別のことをやるにしても、何らかの枷がかかってしまう場合もあるのです。
やりたいこと、得意なことの中で目標を作ってみる
この状態で、恐怖を持っていること、やりたくないことを無理にやらせようとするのは非常に困難ですし、
させたとしても、それが成功に結びつかなければ持続することもないでしょう。
自分の好きなこと、得意なこと、できることを目標立ててやってみるのがいいかもしれません。
最初は何でもいいです。ゲームなどでもいいでしょう。
「やればちゃんとできるんだ」という実感を覚え、着実に身につけていくことができれば、
いろんな物事への取り組みも恐怖感を覚えず、できるようになるはずです。
子どもに言っちゃいけない言葉を言ってしまうのはなぜか
子育てをされている方は一度目を通しておくべき記事です。
どうして言ってはいけないか、という理由も明示されており、わかりやすい一覧です。
しかし、どうしてこのようなことを言ってしまうのでしょうか。
そして、どうやって改善していけるのでしょうか。
親側の認識の問題。
子どもを育てることにおいて、歪な認識を持っているためにこのようなことを言ってしまうのではないでしょうか。
例えば、現状からはかけ離れているにも関わらず、過度の期待や幻想を抱いたりすると、
一覧にあるような「この家庭は私の理想としていたものと全く違う!」という発言をしてしまうのだと思います。
解決するためには、まずそこから直していく必要があります。
では、親が持つ認識は一体どこで歪なものに変容してしまうのでしょうか。
プレッシャーやトラウマ的経験
子どもにとって適切でない接し方をしてしまう理由は、
親である本人にプレッシャーや、あるいは何らかのトラウマ的経験が起因となっていることが多いようです。
例えば、子どもだった頃に虐待を受けていると、親になった時に同じように虐待してしまうということがあります。
また、自分が経済的理由などで進学したくてもできなかったため、自分の子どもは何としても大学へ入れさせようとする、など。
他にも、子どもが問題を起こした時の周りの家庭からの視線だったり、子育てそのものに対するプレッシャーだったり・・・
親とて人の子です。そのような経験がまったくない人なんていません。
そういった抑圧や心の傷から耐えきれず、子どもに押し付けてしまっていることが原因の一つだと考えています。
中々解決されない理由
このことで一番問題なのは、責任を大人たちへ押し付ける「のみ」に留まっていることです。
今の世の中、子どもが何かすれば、親の責任(あるいは教師)だと言われます。
確かに、責任は親が一番負わなければならないでしょう。
しかし、当事者の苦悩を理解しようとせず、周囲はただ単に責任を押し付けるだけで、あまり解決策は提示しません。
これでは、さらにストレスがかかり、悪循環が生まれ、状況は悪化するばかり。
このことが解決を遠ざけている原因ではないでしょうか。
まずは味方を見つけて、気持ちの整理を
親としての気持ちを理解し、ケアし、解決へ導こうとしてくれる人、環境が必要なのです。
もしここまでの話で思い当たるフシがあれば、迷わず協力者を見つけ、助けを得ることをお勧めします。
自身のことを、自分ひとりだけで解決するのは非常に困難ですから。
自分が抱えている抑圧や心の傷は一体何なのか?
まずは、味方と一緒にそれを見つけて、整理をつけることです。
そこから変えていくことができれば、言っちゃいけない言葉は自然と使わずに済むようになるのではないでしょうか。
感情の共鳴について
自分が嬉しい時、楽しい時、怒っている時、悲しい時、そばにいる人はどんな感情を抱くでしょうか?
例えば、自分が嬉しい時などはどうでしょうか。
物事が複雑になっている場合、必ずしもそうとは言えませんが、基本的には相手と同じ感情を抱くものです。
自分からの視点に立つと意外と気付かなかったりするものですが、相手を想定してみると単純です。
例えば、子どもが学校へ入学して「いっぱい友達ができた!」と言って笑顔で帰宅してきたらどうでしょう。
もちろん自分も嬉しい気持ちになりますよね。
逆に、ゲームなどを取り上げられて苛立っていたりしたら、自分はどう感じるでしょうか。
こちらも、同じように苛立ちを感じると思います。
感情は相互作用する。だからこそ・・・
自分が嬉しい時、楽しい時などは、相手に対してポジティブに作用されるから問題はないのです。
ネガティブな感情を持っている時も、自分のことであればコントロールすることも可能でしょう。
しかし感情は、自分からも作用すると同時に、相手の感情からも作用されるものです。
相手からネガティブな感情が発されている時、私たちはどう感情を受け取り、どう働きかけができるのでしょうか。
発散させるのではなく、伝える
相手のネガティブな感情に共鳴し、お互いにぶつけ合うということになってしまうと最悪です。
また自分から発してしまったネガティブな感情も、いつもコントロールできるというわけでもないでしょう。
自分が我慢していれば、という方法は現実的ではありません。
我慢できなければ、伝えれば良いのです。
といっても、感情を爆発させるわけではありません。
基本的には相手も同じ感情を抱くわけですから、共感的態度とともに伝えてあげることです。
ネガティブな感情の共鳴は、相手への共感を持って解きほぐすことができます。
どうやって共感を得るか
共感的態度とともに伝える、ということはどういうことでしょうか。
ずばり、自分が「こういうふうに接してほしい」「こういうふうに伝えてほしい」と感じることを、相手にしてあげることです。
自分が求めている態度でコミュニケーションを図れば、同様に思っている相手が「共感してくれている」と思うのは道理です。
人間関係で、お互いに行き違いがある場合は、ぜひ試してみてはどうでしょうか。
アサーティヴなコミュニケーションとは
前回の続きです。
コミュニケーションには、アグレッシブ、ノンアサーティブ、アサーティブの3つがあるというところまでお話ししました。
それぞれ、どう違うのかお話したいと思います。
アグレッシブ
自分中心で、相手のことを顧みないコミュニケーションの方法です。
悪く言えば、自分勝手です。
例えば、相手の気持ちや事情を考えず、自分の欲求や用事を押し付けるなどですね。
これは、例え優しい口調で言ったところで同じです。
不登校の子どもに、理由も聞かず登校を強制するようなこともアグレッシブな接し方と言えます。
皆様は、このような接し方をしないことを願っています。
ノンアサーティブ
自分の気持ちは出さず、相手の気持ちに合わせる方法です。
アグレッシブとは反対に、相手の欲求に自分の合わせていきます。
「本人にあまり干渉せず、意思を尊重する」という方が、誤解してこのように接していることが多いです。
相手の気持ちに寄り添う上で正しいように思われますが、実はそうではありません。
そこに自分の気持ちを出していない以上、寄り添うものがそこにないからです。
時と場合によっては、このように接することも必要になりますが、
相手の欲求に答えているだけでは、心を開くことは不可能でしょう。
アサーティブ
相手の気持ちを尊重した上で、自分の考えを述べる方法をアサーティブと呼びます。
詳しく説明しようとするとかえってややこしいので、例を挙げてみます。
どうしてもAさんに仕事を頼みたいけれど、Aさんは他のことで手がいっぱいになっている場合を想定しましょう。
この時、「今とても忙しいのは承知しているが、Aさんにこの仕事をしてほしいと思う。手が空いた時で構わないから頼まれてくれないか?」
という言い方は、非常にアサーティブだと言えます。相手の事情を知り、気持ちを酌んだ上で、正直に自分の気持ちを伝えています。
これを「忙しいのは当たり前だ!これもやるんだ!」と言うのはアグレッシブな接し方で、ふさわしくないですね。
不登校の子どもの場合は、用事などよりは率直な気持ちを伝える方がよいでしょう。
気持ちや事情を酌んだ上で、自分の気持ちを伝えるということを心がけてみてください。
不登校の子どもと接する時は「アサーティヴ」に
アサーションという言葉を聞いたことがあるでしょうか。
よりよいコミュニケーションができるための方法のことです。
コミュニケーションには3つの種類があります。
アグレッシブ、ノンアサーティヴ、アサーティヴの3つです。
詳しい説明は次回に回しますが、多くの人が、コミュニケーションは「積極的」か「消極的」かでとらえがちになっています。
しかし、そうではありません。
このうち、アサーティヴに当たるのが、よりよいコミュニケーションの実践になり、積極的にも消極的にもならない方法なのです。
とりわけ不登校の子どもに対して有効であり、
基本的な対応の方針となるので、ぜひ正しく理解してほしいと思います。
詳しい説明はまた次回に行いたいと思います。
自己を肯定できる人間になるために
今回のお話は、読んでいる方というよりも私たち側が心に置いておかなければならないことです。
先日、自己嫌悪感克服方法というトピックを投稿しましたが、
その最後に、自己を肯定することについて少しお話しました。
自己を肯定する必要がある時
常日頃から「自分はありのままの自分で良いんだ」と思えるような環境が理想的ですが、
子どもが自己否定・自己嫌悪に走っている時には特に気を配りたいところです。
自己肯定のためのプロセス
?自己否定につながっている自身の短所・弱点・コンプレックスを認めるということ。
これが非常に難しいのです。長い月日を重ねて捉われていれば、それだけ時間もかかってしまいます。
また、本人の気質によっては、素直にそれを認めることができない場合もあるでしょう。
何より「認める」ということそのものが難しいのです。
この点については後述します。
?自己否定の原因を認めた上で、克服すること。
ここからのプロセスは自己嫌悪感克服方法に当てはまるのでご参照ください。
しかし、自己否定に繋がっていることがしっかり認められていなければ、このプロセスが逃避になってしまうのです。
例えば、数学が苦手な子が何とかできるようになるために勉強を頑張っていますが、
これが、自分は数学が苦手な人間だ、だけれど頑張ってできるようになりたいと願って頑張っているのか、
それとも、自分は数学が苦手なんて認めたくない、そんなの自分じゃないと思い、恐怖と不安に駆られて頑張っているのかで違いがあり、
結果として点数がとれたとしても重要なポイントは押さえられていません。
後者は逃避であり、自己否定から抜け出せていません。
この状態から仮に頑張れたとしても、本人の成長には繋がっていないのです。
もしまた自信を失った時、そこにリバウンドしてしまいますから。
自分がここが弱い、でもその上で克服したいと思える状態でなければ次のステップに進むことはできないのです。
自己肯定感を得られるかどうかは周囲次第
ありのままの自分で良い、自分は自分で良いんだと思えないのは、自身の弱点が何らかの恐怖や不安に晒されているためです。
そして、それを決定づけるのは周囲からの目、影響に起因するのです。
例えば、勉強が苦手だということを周囲が責め続ければ、もちろんありのままの自分で良いとは中々思えないでしょう。
まずは、周囲からその短所を認めてあげるということから始まります。
「でも、そんなことしたら本人は『じゃあいいや』と思って怠けてしまうのでは・・・」
そんなことはありません。あるいは勘違いがあるかもしれませんが、「認める」と「許す」では違います。
確かに、勉強が苦手なことを「許す」と、別にやらなくていいんだと思ってしまうかもしれません。
そうではなく「認める」のです。
許すわけでもなく、かといって叱るわけでもありません。ここに「認める」ということの難しさがあります。
コツは、本人も周囲も「それに対して何かしなければならない」という強迫観念を捨てるということです。
それを「何かしなければならない問題」と捉えることが、既に認めるということを放棄しているのです。
周囲が認め、本人が認め、そこから再度見つめなおした時に克服しよう思った時からが、ようやく次のステップになります。
自分の弱点を克服するのか、それとも自分の長所を伸ばすことで克服するのか。
どちらにせよ、未来は開けています。
ゲームに没頭してしまう子どもが立ち直るためには
不登校になっている子どもを多く見ていると、一口に不登校といっても様々な状態があることに気づかされます。
その中でも、ゲームに没頭してしまっている子ども、というのも少なからずいるんですね。
親御さんの立場からすれば印象の悪いものですし、行き過ぎれば悪影響を伴うこともあります。
やめさせることも容易ではありません。
しかし私は、毎日何時間もゲームに没頭しているような子どもでも、完全にお手上げ、とは思いません。
むしろ周りからの働きかけによって、必ず目標を見つけ、驚くほどエネルギーを注ぎ込める人間だと考えています。
まずは、ゲームに没頭してしまう理由から考えていきます。
ゲームに没頭する理由1「目標を与えてくれる」
「さらわれた姫を助けにいく」「世界を救う」など、
ゲームはプレイする限り、受動的に目標を与えてくれます。
そして「ブロックを並べる」「敵を倒しに行く」など、手段も明確化されています。
現実では、持つべき目標というものがなかなか見つかりませんし、その手段も調べたり考えてやらなければなりません。
そのプロセスに気づかず、エネルギーを持て余しているからゲームに没頭するのではないでしょうか。
ここまでの説明で、腑に落ちない点があると思います。
それは、学校や親御さんが与えた目標からはなぜ目を逸らそうとするのか、ということでしょう。
テストで良い点を取る、ということは目標にならないのでしょうか。
次の項へ進みます。
ゲームに没頭する理由2「現実における目標への疑心、絶望」
子どもが判断しているのは、その目標に向かって頑張る意味があるかどうかだと思います。
ゲームは、仮想空間の中で「世界を救ってみんなから感謝される」など、現実では起こり得ない目標、達成感を与えてくれるものもあります。
しかし、現実では、残念ながらそういう期待は中々持てないものです。
つまり、例えば勉強そのものがつまらないということではなく、その目標に向かって頑張ることに意味があると思えないのです。
宿題をやったことも「当たり前のこと」と捉えられるし、むしろやらなかったら怒られるぐらいですから。
ゲームに比べて、あまりにも報われないとさえ感じられるでしょう。
ゲームに没頭する理由3「現実への恐怖」
あるいは恐怖心などが起因となっているケースです。
失敗経験を繰り返し、「現実ではいつも失敗する」という刷り込みが行われています。
そして、ゲームなら大丈夫、ということが意識的にせよ無意識にせよ感じ取っているのだと思われます。
窘めたり、咎めることに意味はありません。
定めるべき目標が見つかっていないのに、「ゲームをやめなさい」といってどうにもなりません。
仮にやめさせることができても意味はない、ということをわかっていただけたと思います。
「現実はつらい・つまらないけれど向き合っていかなければならないんだ」
などと、窘めることにも意味はありません。
なぜなら、ゲームをやっている理由そのものが、現実に対する恐怖や、何も期待できないことが嫌で嫌でしょうがないからです。
それを我慢できるならば、はじめからこうはなっていないでしょう。
彼らは、エネルギーを持てあますほど、有り余っている状態である
逆に言えば、ゲームに没頭する、ということは何か成し遂げたい!というエネルギーが有り余っている証拠だと私は考えています。
窘めたり、咎めたりするのではなく、彼らの目指すべき道を一緒に探し、足の枷を外してあげることで第一歩を踏み出すことができるのです。
そのための課題点は3つあります。
「目標を見つける」「現実に対する期待感を持つ」「その期待感が、自身の持つ恐怖心を上回らなければならないこと」
まずは目標を見つけるということです。その目標は、本人の希望・期待にふさわしいものであることが重要で、
恐怖心を上回って行動に繋がることが理想です。
困難なことかもしれませんが、周囲が驚愕するほど活躍できるのではないかと私は思います。
彼らと、彼らがエネルギーを注ぎ込める目標・場所を探してみてはいかがでしょうか。