うつ病が治りにくい3つの理由


前回前々回とうつ病をテーマにして扱いました。

今回は、不登校から少し話が逸れてしましますが、うつ病そのものについてお話ししたいと思います。


うつ病の治療期間は、人によってまったく異なります。

抗うつ剤を2週間投与したらすぐに良くなった!という人もいれば、

数カ月〜数十年と、長い付き合いになってしまっている人もいます。


しかし、うつ病は本人の気付かないうちに進行していることが多く、

さらに今の風潮として、うつの軽い初期症状は「甘え」として扱われがちなため、

自覚を持ってうつ治療に望むのは、残念ながらかなり重症になってからが多いのが現状です。

こういった考え方は日本人気質なのかもしれませんが、うつが重症化し、治りにくいものにしている原因の一つでしょう。

うつ病治療はダイエットみたいなもの


ダイエットとうつ治療は考え方が似ています。


例えば、ダイエットは、不摂生な食生活を送っていた期間と同じぐらい時間をかけて、体重を落とすことが理想で、

1年間カロリーの高い食生活を送っていた場合は、1年かけて体重を落とすことがベストです。

明確な基準はありませんが、これはうつ病も似たものがあります。うつと付き合ってきた期間と、治療期間はおおよそ比例するものです。


そして、もうひとつの共通点は、

ダイエットは栄養バランスと運動の両方をきっちりこなして、はじめて効果を得ますが、

うつ病も、投薬と休養の両方をきっちりこなす必要があるということです。

片方が欠けてしまうと、効果は激減してしまうのです。


ダイエットに失敗する大体の人は、急激に痩せようとしたり、

カロリーを減らすだけで痩せようとしたりしている人たちに多いと思います。

うつ病の治療もそういう発想であれば、やはり失敗することが多いのです。



うつ病のリバウンド


そして、うつ病にもリバウンドがあります。

前述の通り、長く付き合ってきたうつほど長い期間をかけて治療しなければならないのですが、

早く治そう、とするとそれだけリバウンドの可能性も高いのです。

なので、リバウンドを防ぐためにはゆっくり、時間をかけて治療する必要があるわけです。


ただし、それでもうつ病が治りかけて来た頃に、必ず一度はリバウンドの危険が襲ってきます。


うつは、抑うつ疲労感・情緒の欠如・食欲減退・自信喪失・不眠・集中力の低下・意欲の低下・・・

・・・などの症状がありますが、

うつの治りかけの頃は、これら全ての症状が徐々に改善してくるわけではなく、

意欲のみが先行して回復してくるのです。そしてしばらく期間を置いて、他の症状が改善へと向かいます。


意欲は湧いてきているので、色々と行動したり頑張ったりします。

しかし、心の回復が追いついてきていないため、大きくストレスがかかってしまいます。

そうして自分のキャパシティを超えた行動の結果、リバウンドを起こしてしまうのです。


こうなると、せっかく医師の通りに守って服薬し、十分休養を取っていても、

無理な行動のせいで努力が水の泡、一からやり直しになってしまいます。


さらに、うつ病において、最も自殺のリスクが高い期間でもあります。

なぜなら、普段は意欲がないので自殺する元気すらないのですが、

意欲だけが回復してくると、自殺する意欲まで出てしまいがちだからです。

そのため、うつ病で自殺する人のほとんどが、深刻な状態になっている時ではなく、

治りかけてきたちょうどこの頃に多いのです。


傍目から見た時、本人は元気になってきてるように見えますので、

周囲の人もつい応援し、頑張らせたくなります。

しかしこういう時こそ、身体的にも精神的にも安静にし、きちんと回復させてあげなければ、

うつ病が完治する日は遠いかもしれません。


まとめ


ここで、うつが治りにくい原因をまとめてみましょう。

1、うつの前兆、初期の段階は、甘えとして見なされがちな風潮がある。

2、うつ病を治すために、すぐ治そうとしたり、横着な方法を取ることで失敗、リバウンドする。

3、うつ病が治りかけの頃に無理をしてしまいがちであり、多くはそれで逆戻りする。(ひどい場合は自殺する)


しかし、このようなことがわかっていても、当事者には非常に困難なことです。

周囲の人たちが理解し、できる限り気にかけてあげることからが出発点なのです。

なぜ子どもの「うつ病」は未だ世間に認知されていないのか。 後編

先日の続きです。


社会人のメンタルヘルスについては公に議論されるようになったのに、

なぜ学校・教育の場ではそうではないのか。


断っておきますが、もちろん、不登校になるのはみんなうつ病なのではありません。

変に不登校うつ病という考え方を持たれるのも、偏見や対応に問題が生じるため、かなり危険です。


しかし、2〜3人に1人はうつを経験すると言われているほど、うつ病は自覚がなくて患っている方が多く、

それは子どもたちにも多くのことが言えるのです。

にもかかわらず、子どものうつ病はあまり知られていません。

加えて、不登校うつ病に関連性について、ご存じの方は数少ないものです。

その原因はどこにあるのでしょうか?

子どもがうつ病になるわけない、という思い込み。


うつ病がメジャーな言葉になったのは、先日も話したように、

職場環境における過労やストレスの問題が明らかになったことからです。


そのためか、うつ病は職場環境が原因で、社会人にしかならないという思い込みが大人たちの中で根付いています。

(子どものみならず、いわゆるニートと呼ばれている人たちに対しても、

心の病が原因ではなく、「甘え」「怠け」だとされがちなのもそのためかもしれません)

仮に子どもから「自分はうつかもしれない」と言われたら、「そんなわけない」と思ってしまう方が多いのではないでしょうか。


子ども自身、今自分に現れている症状を「うつ病」ということを知らない、理解できない。


さらにに、そもそも子どものうつ病は、大人のそれに比べて気付きにくいのです。


身体に何か異状があった場合、当然子どもは親を頼り、知らせます。

人間としての本能なのかもしれませんが、身体症状については敏感に察知し、報告することは簡単にできるのです。


ただし、心の病気はそうでないようです。

子どもはうつ病になった時、自分がうつ病であるとカテゴライズができません。

なぜなら、心の病気について知識のある子どもは、ほとんどいないからです。


身体の異状であるならば、例え何の病気かわからなくても「おなかが痛い」という風に表現することができます。

しかし、心の病気の場合、どのように親に知らせて良いのかがわからないことが多いのです。


とはいえ、今自分に異状が起きていることは事実なので、親に報告しようとします。

この時、子どもは「一番親の関心を引く報告」を手段として取るため、

心の病を「身体の異状」であるかのように報告します。


「熱っぽい」「身体がだるい」

・・・そうは見えないのに、子どもがそうやって報告してきた経験はないでしょうか?

ほとんどの人は、これを「ずる休み」と思い、怠けだとか甘えだというふうに捉えてしまいます。

しかし、心の病を抱えている子どもは、大抵このような手段しか持ち合わせていません。


子どものうつの現状


子どものうつ病が特別問題視されない理由がおわかりいただけたでしょうか。

大人には子どもはうつにならないという思い込み、あるいは幻想があり、

さらに子ども側からのSOSも気づきにくいものなのです。


しかし、その曖昧なサインを「怠け」「甘え」と一蹴してしまえば、ずっとこの現状は変わらないでしょう。

大人が敏感に察知し、適切に対応することが求められるのです。

なぜ、子どもの「うつ病」は未だ世間に認知されていないのか。

ここ10年間で、「うつ病」に対する認知度が高まりました。

職場でのストレスや過労による自殺などが問題視されてからのことです。


そのため、社会・職場におけるメンタルヘルスの環境は改善しつつあります。

まだ大半の企業においては、大きく問題が残っているものの、

うつ病」などの精神病が理由で休職・退職する、ということが世間一般で当たり前のように認知され、徐々に理解されはじめてきたのです。


しかし、職場環境における、社会人のメンタルヘルスは改善してきたにも関わらず、

学校の子どもたちに対してのそれは、かなり一部の人にしか認識されていません。


むしろ今、「子どももうつ病にかかるの?」と思った方も多いのではないでしょうか。

子どもであっても、精神科へ通って薬を処方されている方は少なからずいるのです。

しかし問題は、先ほど指摘したように「子どものうつ病」について知っているのは、

当事者のご家庭・スクールカウンセラーなどの専門家・学者などばかりで、

世間一般における認知にはまだまだ程遠いのです。


そういった認知が乏しいためか、職場環境を理由に休職・退職することが推奨されてはじめてきたのに対し、

学校環境を理由に不登校になることが推奨されるようなことはほとんどありえません。

同じ心の問題であるのにも関わらず、なぜ子どもたちに対しては中々認められないのでしょうか?


今の職場環境でも未だ改善の余地がありますが、

今の教育環境は、それのさらに10年、時代遅れになっていると言っても過言ではないのです。


10年、20年前までの社会では「心の病」に対して見向きもされていませんでしたが、

今の教育現場ではそれに近い状態なのかもしれません。


子どもの「うつ病」ってどんなもの?

学校環境における子どもたちのメンタルヘルスの現状は?

なぜ職場のメンタルヘルスより認知度が低い現状に留まっている?

次回引き続きお話したいと思います。

日本の教育には褒めるという歴史がなかった?

褒めて伸ばす方がいいか、厳しく躾けた方がいいかの議論が時折されていますが、

どちらとも長所と短所を持ち合わせているのは間違いないと思います。


食生活などで顕著ですが、肉だけしか食べないとか、野菜ばっかりとか、偏っていると栄養失調になってしまいます。

人によって違いはありますが、大体の物事はバランス良くされるのが一番良いのかもしれません。


しかし、教育という分野において、長い間子どもは厳しく躾けていくものだと考えられてきました。

褒めて育てるという考え方が広まったのは、ここ2〜30年の間のことで、実はごくごく最近のことです。

そういった歴史があるため、私たちが思っている以上に「褒めて育てる」ということが少ないのかもしれません。

下の記事を拝見させていただいた時、そのように感じました。

どうして人を褒めて前向きの姿勢を生みだすというプラス志向の考え方が無いのだろうか。

仮に、良いところが少なくて問題ばかりが多いにしても、問題点ばかりを指摘されてやる気が出てくるなんて言う人はあまりいないだろう。


褒める文化という難しさ-Basic


職場の環境、社会人育成の場においても言えるのでしょう。

もしかしたら、バランス良く教育しているつもりでも、相手にとっては厳しすぎると感じてしまっているかもしれませんね。

「学力」とは一体何を指しているか?

「学力」と聞けば、みなさん何を思い浮かぶでしょうか。

学校の成績、評価、テスト、あるいは偏差値だったり、どこの学校に通っているかだったり・・・

恐らく、ほとんどの方々はそのようなことを思い浮かべるのではないかと思います。


先ほど「学力」について綴っている記事を発見しましたので、引用してご紹介します。

学力とは文字通り「学ぶ力」のことである。
それはたまたま外形的に成績や評価として表示されることもあるが本来はかたちを持たないものだ。
というのは、「学ぶ力」とは「自分の無知や非力を自覚できること」、「自分が学ぶべきことは何かを先駆的に知ること」、「自分を教え導くはずの人(メンター)を探り当てることができること」といった一連の能力のことだからだ。
これらの力は成果や達成では示されない。
学ぶ力は「欠性態」としてのみ存在する。
何かが欠けているという自覚の強度のことを「学ぶ力」と呼ぶのである。
(中略)
人間的な意味での「力」は、何を達成したか、どのような成果を上げたか、どのような利益をもたらしたかというような実定的基準によって考量すべきものではない。
「言葉の力」も同じである。
「言葉の力」はそれが達成した成果やそれが発語者にもたらした利益によって計測されるのではない。そうではなくて、「言葉の力」とは、私たちが現にそれを用いて自分の思考や感情を述べているときの言葉の不正確さ、不適切さを悲しむ能力のことを言うのである。
言葉がつねに過剰であるか不足であるかして、どうしても「自分が言いたいこと」に届かないことに苦しむ能力を言うのである。

言葉の力(内田樹の研究室)


「学力」を定義づけるのは、成績のような表面上表れるものではなく、テストのように図れるようなものではなく、

ましてや学歴のように肩書きとして使われるものではありません。


ここでは、自分に足りないもの、欠けているものを探し続ける能力を指しています。


自分に足りないものは何か。

いつも、人は自分の足りないものについて思い悩みます。

苦しんで、どうしようもなくなり、無力感を覚えることもあります。


しかし、苦しむからこそ、欠けているものを得ようとするからこそ、人は学ぼうとすることができるのでしょう。

言葉が届かない苦しみを抱えるから、それに近づこうと言葉を学ぶことができるのです。


であるならば、私たち大人である教育者ができることは、その欠けているものや苦しみを具体化させて、

それに押しつぶされないように、一つずつ乗り越えられるように応援してあげることなのではないでしょうか。

それが、直接「学力」を育てることに繋がってくるのだと思います。

なぜ「よい子」であることは苦痛なのか 後編


前回の続きです。

みんな誰しも仮面を被っているんじゃないの?というお話からでしたね。


私たちは、年齢を重ねるにつれて、本音と建前を使い分けることが必要になったりします。

それを多数の人たちは自然と使い分けています。

それが仮面をつけていることになるならば、誰しも仮面を被っていると考えられますね。


だから、子どもを「よい子」でいるようにするのは、そのための教育なんだ、と言われれば一見正しいように思えます。

仮面は自身の個性も隠してしまう

しかし、本音と建前の使い分けなどの社交術と、仮面を被ることは大事な部分で違います。

仮面を被るということは、本音だけではなく、その人の資質や性格まで覆い尽くしてしまうことです。

そこに本当の自分はいないし、自分自身でさえ自分のことが見えません。

苦痛を感じないわけがありません。

「本当の自分」を隠したりする必要はないということ


どうすれば、この牢獄から抜け出せることができるのでしょうか。

確かに、大人になるにつれて、本当の自分自身ではなく【その場に応じた自分】であることが求められるようになります。

しかし、それは自分自身の個性を隠したり覆したりする必要があるわけではありません。

自分自身を閉じ込めてしまわないためには、

決して【その場に応じた自分が求められる】=【本当の自分自身を出すことはタブーである】と捉えないことです。

「よい子」な人が「よい子」であることを押し付ける?


生真面目な人ほどこういう風に考えがちです。

そして生真面目な人ほど「こういうものなんだ」と無理に思いこんで、苦しいながらもそれが当たり前なんだと考えるようになります。

当たり前だと考えてしまうので、生真面目で、苦しんでいる人ほど、人に【自分自身】を出さないことを強制させてしまい、悪循環が発生してしまいます。


「よい子」を強制させる人は、その人自身が「よい子」であることを強制させられてきたのではないでしょうか。


もし心当たりのある方は、考え方を変えてみてはどうでしょう。

これまで仮面を被ることを強制され、「当たり前」だと思ってきたことを変えるのは難しいですが、

そうすれば、自分自身の心も、人への接し方も少なからず変化していくはずです。


そこから最終的に、社会で求められる「よい子」から、社会で求められる「本当の自分」への道が開けてくるのだと信じています。

なぜ「よい子」でいることは苦痛なのか

人に悪く思われたい人、というのはいないと思います。

自傷的な意味で、わざと嫌われるように振る舞ったりなどの例もありますが、

根本的は、誰しも人に好かれ、良く思われたいと考えています。


そのためには「人に好かれる自分」を作り上げていく必要があります。

それは成長とともに自分の中へ自然と組み込まれていきます。


しかし「人に好かれる自分」は、「自分自身がなりたいと思う自分」と統合されていなければなりません。

統合されている状態とは?


例えば、料理を作ることが好きで、将来料理人になりたいと思っていて、実際料理を作って人を喜ばせることができる人がいます。

これは、完全に「人に好かれる自分」と「自分自身がなりたいと思う自分」が統合され、実際に行動できていると言えます。

人から好かれ、自分も幸せ。文句なしですよね。

では、これらが分離してしまっていたら?

仮面をかぶった自分「ペルソナ」


例えば、勉強するのは好きじゃない、むしろ嫌いだけど、成績が良い方が周りに喜ばれるから勉強する。

この場合、「人に好かれる自分」と「自分自身がなりたいと思う自分」は分離してしまっています。


自分は本意ではないが、人に好かれるために長所を作りだして演出すること。

これを心理学用語で「ペルソナ」と言います。ペルソナを訳すと「仮面」。言い得て妙ですね。

何がダメなの?


「本当の自分はこんなのじゃない」というふうに考えてしまい、結局は続かないことの方が多いのです。

・・・というよりは、続かない方がむしろ良くて、それを続けられてしまうと、

「本当の自分を出せばきっと嫌われるだろう」と考えてしまい、本当の自分を表現できなくなることもあるのです。

本当の自分が評価されない→本当の自分が出せない、本当に自分がやりたいことができないと繋がるわけですね。


そうなると心ががんじがらめになってしまいます。

では、どうしたらいいのか?


ところで、人に好かれるために、良い人(子)の仮面を被ることって、

子どもに限らず、むしろ仕事をしている大人の方が仮面を被っていることの方が多いかもしれません。

しかし、「みんなそんなもんじゃない?」と考えてしまうのは早計です。


その点も含めて、続きは来週お話したいと思います。